あ、泣きそうだ、と山本は思った。
 子どもがひとり、炎天下に立ちつくしている。年のころなら小学校入学前、幅広の白い帽子にシャツにズボンの、きれいな髪を肩まで伸ばした女の子だ。
(外国人かな。ハーフの人かな)
 日本人にはまずない色の髪も目も十分人目をひくものだったが、意識に引っかかったのはその表情。一見勝ち気とも見えるけれど、なぜだろう、はりつめたものを必死で抑えているのがわかる。

「迷子、かな」
「え?何?」
「あの子」
「どれだよ」
「あーあの、なんか白いのね」
「あれ男?女?」
「女だろ」
「迷子っぽいなー。日本語読めねんじゃね?」
「なに山本、気になんの」
「うん…俺さあ、あの子交番まで届けるわ」
「んだよカラオケ行かねーのかよ」
「まあまあ、そういうのが山本のいいとこじゃん」
「わりーな!」
「振られんなよー」

 友人たちの声に送られ、山本は小走りに子どもへ近づく。

「あのさ」

 子どもはびくんと山本を見上げる。ひとみは稀少な宝石のようで、吸いこまれそうだと山本は思う。

「あの…迷子?かな?」
「…ちちを、まって、います」
「ほんとに?はぐれたんじゃなくて?」
「………」
「えっと、はぐれるってわかんないかな…とりあえずさ、ここ暑くね?交番すぐそこだし、そこまで」
「すいぞくかん!」
「え」

 少女の目はとても必死だ。

「すいぞくかん、どこですかっ!」
「水族…館て、お父さん待ってんじゃ」
「すいぞくかん、どこですか…いかないと、だめ!じかんが、だめです!」
(なんだろ…お父さんと約束してたとかかな。時間…飛行機?どうすっかな、交番、行った方がいいのか、行かない方がいいのか。だけどほっとくってのは…)
「…すいぞくかん」

 考えあぐねる山本の前で、少女は、ほとんど泣きそうになりながらつぶやいた。

「いきたい、かった…」

 山本は白い帽子のてっぺんを見下ろす。は、と息を吐く。あーあ、これ誘拐だぜ。わかってんのか?

「お父さんと一緒じゃないけど」
「…?」
「行く?俺とでよかったら」

 目を丸くした少女が次の瞬間見せた満面の笑みを、山本はきっと一生忘れないだろう。





「すいぞくかん!さかな!」
「クマノミ、カサゴ、アロワナ、ナポレオンフィッシュ、うわこれ捌きてえなー、メバル、ニジハタ、アカダイにクロダイ」
「squalo! Dove e lo squalo?」
「タツノオトシゴ、サンゴにヒトデ、ハリセンボンに、マンボウ、ウツボ、これはでかいぜ、ジンベエザメ!」
「きゃーっ!」

 山本と子どもは水槽の狭間、水の影の下を走り抜ける。子どもはキラキラした目でガラスの板にはりついている。

「ほんっと魚好きなんだなあ」
「すき!」
「女の子でそんなに魚好きって珍しいよなー。俺んちはさ、魚食べさせる店やってんだ。寿司って知ってる?」
「スシ?」
「知らないか。まあ味わかるようになったら来てくれな」
「うん!」

 少女は海中を模した透明なトンネルを踊るように歩く。ふいにあたりに波が満ちた心地がして山本は不思議なきもちになる。
 交番まで手をひいて行くと茶髪の若い男の人が真っ青な顔して飛び出してきた。あっ…あれがお父さんかな、心配させたんだ、悪いことしたなと穴があったら入りたくなったけど、駆け寄った女の子が早口で何か言うとこっちを見て頭を下げてくれた。いや俺、あなたの娘さん連れ回してたんですけど…なんて言って通じる自信はないから黙って頭を下げ返す。
 その日の夜、布団に倒れこんで天井を見上げて、一度だけ振り返り手を振った少女の姿をこの上なくはっきり思い描けることに気づいた。それは、何か、とても当然でありながら初めて思い知ることのようだった。たとえば生まれてからずっと一緒にいた幼なじみの女の子のことが好きだったと気づいたとでもいうような。
 今日のこの記憶が薄まることはきっとないだろうと山本は思う。たとえばいつか結婚して、子どもが生まれて、その子どもが今の自分の歳を越えたりしたとしても。









「親父?どーかしたの?」
「ん、ああ…いや、ちょいとぼーっとしちまったか」
「気ィつけろよ、刃物使ってんだから」

 それで話の続きだけど、としゃべり出す息子を、包丁をぬぐいながら、山本剛は苦笑とともに眺めた。いつのまにかイタリアくんだりに仕事を見つけて飛んで行き、盆暮れにもなかなか帰ってこなくなった息子がふらりと顔を見せたはいいものの、同じ話ばかり繰り返すのだ。
 曰く、同僚にすごい人がいる。腕はピカ一、面倒見もよく、引けを取るってことを知らない。おまけにめったに見ない美人だと、そういう話らしい。こりゃ惚れたなと生ぬるい気持ちで相槌をうち、ふと思いついて問いかける。

「武よ、イタリアのお人ってぇのは、なんだ。その人みてえな銀髪さんが多いのかい?」
「や…そんなことねーと思うけど。その人は北欧の血が混じってるとか言ってたような、なかったような…なんで?」
「いやいや、恥ずかしいやな、改まんのは」
 山本剛はパタパタと手を振った。「俺の初恋の子もな、プラチナブロンドっていうのか?そういう頭してたんだよ」
「マジで?すげー初耳!えっ、初恋?」
「おおよ、そりゃきれいな子だったぜ、肌なんか真っ白でよ。今じゃロリコンだとか言われちまうんだろうがね。その子は5、6歳で、俺ぁ大学の何年だったかで…ああ、でも今はもう30越えてんだろうなぁあの子も」
「へええ…で、どうしたの?告白したりした?」
「するもんか、名前だって聞いてねぇもの。会ったのは一回だし、それっきりさな。探そうとも思わなかったよ」
「ふーん。なんか、ブンガクサクヒンとかみたい」
「よせやい、照れるってんだ」

 山本剛は大仰に叫び、目元を赤らめて微笑んだ。


「ま、昔の話よ」













20080905
リカラリアはスクアロ総受けを推して参ります 逆親子丼^^  お父さん、はもちろん剣帝です。
伊語・「鮫!鮫はどこ?」