与えられたぬるいまどろみは地獄でしかなかったのだ。 酸素とは血に乗って体内を巡る以前に目標を燃やすものであり目標とは鉛弾であり毒薬であり敵すなわち障害だった。それがザンザスの世界であり人生であり、つまりそれはすべてだった。己が身体ひとつで何もかも引き裂いてきた野生の生き物が牙を抜かれ爪を剥がれふわふわの毛布を敷いた温かい檻に封じられてはどうして生きて行かれよう。 柔く、やさしく、それゆえ強靭な檻である。ザンザスはその壊し方を知らない。ゆらゆらとただよう無為の中、ただただアルコールを喉へ流し、時たま思い出したようにクリスタルのグラスを叩き割った。 100個目のグラスを割ったときスクアーロが姿を見せた。 「諦めちまうのか、ザンザス」 スクアーロは悲しげに膿をえぐる。ザンザスの手の中で100個目のグラスの破片がとろけて爆ぜた。 「このつながれた腕でみっともなく足掻けというのか。この無様に折れた足で、どれだけ歩けると思ってる!?」 「…あんたが求めてくれさえしたら、俺はどこまででもついてゆけた」 スクアーロはハラハラと涙をこぼす。ザンザスには涙の意味も言葉の意味もわからない。 「俺は実はもう死んでるんだ。ゾンビみてえなものなんだ」 言うが早いか右手を突き出し、薬指を根元から折り取って見せた。生身のはずの右手は血の一滴も流さない。 「てめえ…何…」 「俺、鮫と相討ちで死んだんだ。自分が死んだのがはっきりわかった。わかったのに、身体がまだ動くんだ。明らかにぶっ壊れてる関節で自力で這い上がったらバケモノ扱いされたぜぇ。実際そうなんだけどな。おかげでずっと縛りつけられたし」 涙は結露だし血も出ねえんだ、と、うつむいて言う、足元に転がる指と爪。 「信じられっか、カスが」 「だけどほんとだ」 「………」 「俺は、あんたのために動けるなら、化け物でも幽霊でもなんでもよかった…だけどあんたが諦めるなら、さよならだ。ザンザス」 「…見限る、と?」 「違う、俺がこんなになったのは、執着がすごく強かったからだ。でもあんたがそれをなくすなら俺のもなくなる」 瞳は見る間にとろりと濁り、腕から、脚から、身体中から力が流れ崩れ出す。 「…そういうもんなんだ。わかるだろ」 スクアーロはぐしゃりとつぶれて動かなくなった。密な筋肉でできたからだは蝋を固めたか標本のようだ。ザンザスは冷たい死体をかき抱き、涙を待った。あるいは夢がさめるのを。いつまで待っても何も起こりはしなかったけれど。 「…わかった。もう一度、戦おう」 ザンザスは死体の耳元でささやいた。 「今度は温ィことは言わねえよ。世界を全部ぶっ壊そう」 ああ、そうだ、狭い世界だ。俺はその狭い世界しか知らない。ボンゴレって名前の窮屈な世界だ。だけどそこは頑強で、暗くて、重くて、重くて。 「だからてめえの力が要る」 奇跡のようにひとみの濁りは吹き飛び唇は凶悪な笑みを宿し細胞という細胞には魂があふれた。平和とは致死毒で博愛は銃弾に等しい。安寧は闇の中にあり幸福は断末魔とともにある。そういうふうに生きてきたのだ。そしてこれからも。指は縫わせればなんとかなるだろう。 「さあ、行こう」 20080903 |