最近、紳士淑女の間で奇妙な噂がささやかれている。白ずくめの死神が出るのだという。 白無垢姿の花嫁にも似たその死神は、静謐で豪奢、潔癖にして蠱惑的、魅入られた者は賞賛の吐息さえ奪われるまま、自ら命を投げ出すという。 男は足早に大理石の階段を上っていた。月を中天に戴いて、いよいよ夜は更け、宴もたけなわ。華やかな気配が扉の外からでもうかがえた。遅刻してしまったことを悔やみながら、両開きの扉へ手を伸ばし、ふと足を止める。ひやりと冷たい甘い香りが薫った気がした。男は振り返る。息をのむ。視線の先には女が一人。星明かりの舞台でたったひとりの観客と相対する女優のごとく、たとえようもなく美しい女だった。 すらりとたたずむその造形は、さながら地上へ降り立った女神のよう。結い上げた髪は月より細く、なめらかな肌は雪より白く、ひとみは銀色、玻璃の玉。完璧な肢体を包む純白のドレスはシンプルなイブニングで、それが彼女の氷のような美しさをいっそう引き立てているようだった。銀のイヤリングにペンダント、ブレスレット、華奢なハイヒールはドレスに合わせた白。その中で、髪に挿した花の飾りと唇だけがつややかな赤をたたえていた。 「…失礼?」 いつのまにか目の前に立っていた女に微笑まれ、男はぎくしゃくと道を開けた。こくり、のどが鳴るのを他人事みたいに知覚する。我知らず立ちつくしていたことにようやっと気づいたときには、女の姿は人混みの中へ消えていた。慌てて探し回ったが広いパーティ会場のどこにもあの白銀は見つからない。男はやむなく諦めたけれど、そのあとは知人のあいさつに気づかなかったり、飲み物の味がわからなくなったりした。 月がいくらか傾いて。賑々しい楽団の演奏が響き、紳士淑女は手を取り踊り、パーティはいよいよ盛り上がる。男は味のしないアルコールのグラスをあける。何杯目なのだかもう覚えていない。酔っているのか、いないのか、自分自身にもわからなかった。 と、そのとき、ふいに潮騒のようにさやいだ空気へ、目をやった男の手の中からグラスがすべり落ち、かしゃんと鳴った。視線の先、人垣の中心で踊っているのはあの女だった。 羽毛のように軽やかに、どこか凛として女は踊る。ちょうど一曲が終わった所で、ふらふらと近づいていった男は、すっと目の前へ差し出されたほっそりした指先に瞠目する。上等の陶器に触れている心地がした。華やかな音楽。さんざめく人々。切り裂くように鋭い、とろけるように甘い、相手のステップ。 一曲が終わっても男はやわらかな指先を手放せなかった。女は小さく笑ったようだった。 「すこし、酔ってしまったわ。静かな場所はないかしら」 男に否やのあるはずがない。静かで整った一室へ、ちょっと手が震えたけれど、大体完璧なエスコートで案内する。こういったパーティにはつきものの小ぎれいな休憩室、身もフタもなく言えば簡易ラブホだが、フタもバケツもなさすぎるので誰も言わない。とはいえ実情はそんなものだ。 「…レディ。どうぞ、お名前をお聞かせ願えませんか」 優雅なしぐさで窓辺に寄り添い星を眺める女を追いかけ、男は言葉を絞り出す。なんてことない一挙一動から目が離せない。鈴を振るよりはわずかに低い透明な声をもう一度聞きたかった。何かの奇跡みたいな銀灰色のひとみに自分を映してほしかった。名前が知りたかった。彼女の名なら稲妻より鮮烈にこの胸へ轟くだろうと思う。 「お好きなように呼んでくださればよろしいわ」 女はコトリと首をかしげる。 「こんなに素敵な夜なのに。名前など、それほど必要なものかしら?」 酩酊と同じ感覚。笑みを含んだ言葉ひとつにめまいさえ感じ、男はこっそりかぶりを振る。 「重ねて問うのは無粋ですね。しかし、困ったな。仮初めとはいえあなたの名となるなど、薔薇の花さえ怯えましょう…オデット、と、お呼びしても?」 「あら、白鳥の姫君の名前なんて身に余ります。…それにどちらかといえばオディールの方…」 「? なにか、」 「いいえ、なんでも。それでは、私のことは、カメリアとでも」 女は花の髪飾りを示してみせた。 「好きなんです、この花。散るときは丸ごと落ちるのよ。首が落ちるようだと言って嫌う向きもあるけれど…私はいさぎよくて好きですわ」 すくい上げるように男を見上げる、宝石よりも稀少な色味。銀の光にさらされて、思考がぐずぐずに溶けていくようだ。唇の動き、震える瞼、彼女の動作のひとつひとつには魔法の力がはたらいているのかもしれない。 「そんなふうに潔く死ねたら、とても素敵だと私は思うわ…」 嫣然と微笑む美しい女。溺れた人間のように手を伸ばす。 深海で太陽へ恋がれる心地。 光る。 銀の。 真っ白のドレス。 赤い花。 どうしようもなく魅力的な。 蠱惑的な… 「…馬鹿な男」 いつのまにか、男は細身の身体を抱きしめ、首の後ろにはしなやかな腕が絡んでいた。耳もとを甘やかな冷気がかすめた気がしたけれどよくわからない。世界の輪郭がすべて崩れて、確かなものがなくなっていく。曖昧さを心地よく受け止めながら、男はゆらゆらとひとりごちる。 だってレディ、レディ・カメリア、男はみんな馬鹿だもの。 彼女はわかってくれただろうかと、にじんでいく意識の中で考えていた。 明るい月の夜である。 石畳に足音が響く。人通りの絶えた往来をすべるように歩く女は白い色をした影のようだ。女はふと足を止め、朽ちかけた廃屋のドアを押し開けた。ランプのあえかな明かりがこぼれて、まるで砂金をまいたよう。埃避けのカバーをかぶせられた家具の中、場違いに豪奢な革張りの椅子に座り、琥珀色のグラスを傾けていた男――――ザンザスは、つと顔を上げて女を見た。ザンザスの視線を受けつつ、女はあくまで優雅にドアを閉めると、流れるような動作で頭の花をむしって力いっぱい投げ捨てた。ザンザスはなんとなく花の行方を目で追った。 「…好きなんじゃねえのか」 「ああ好きだぜぇ、見てる分にはな。大体なんで通信機を頭につけんだ、なんにも伝えられねぇじゃねえか」 「そっちの様子が聞こえりゃいい」 「はん…まぁなんでもいいけど。くっちゃべってねーではやいとこ戻しやがれぇ。女の身体なんざ、特に胸とか、触んのは好きだがぶら下げとくのは御免だぁ」 ドレスをひるがえし仁王立ちで言う女、スクアーロに、ザンザスは黙って銃口を向ける。 そもそもは冗談みたいな力を持つ銃弾が新しく開発されたことだ。名称未定。愛称募集中。効果といえば撃たれると性別が入れ替わる。 ただ、開発中のものなので、効果の出る者と出ない者がいた。原因はまだわかっていない。確かなのは、ヴァリアーの中でこの弾が効くのがスクアーロだけだということだった。これがわかったときルッスーリアは両手を合わせて目を輝かせベルは腹を抱えて笑い転げた。レヴィはものすごく嫌そうな微妙な顔をしていた。スクアーロは今ならあいつとわかり合えるかもとちょっと思ったが、このときとばかり性別と見た目を生かした任務を山のように割り当てられて忙しく、結局友情は育てずじまいだ。 「ッたく、何が悲しくてよぉ…下着はきついしスカートはうぜえし、あとこのハイヒールって奴ァ凶器にした方が絶対世の中のためになるな」 「…脱ぐなよ」 「脱がなきゃ破れるだろうがぁ」 スクアーロはアクセサリーを引きちぎるように外し、靴を蹴り飛ばし、ドレスも下着もあっという間に脱ぎ捨て全裸になった。ほの暗い部屋に光を孕んで浮かび上がる白い肌。手入れしないで放り出しとくなら同じだろうとザンザスはため息を吐く。銃を置き、立ち上がると、手近なソファのカバーをはいで部下を引き寄せ、押し倒した。スクアーロは、う゛お゛、とつぶやき、別に抵抗はしなかったけれど、うんざりしたように口の端を曲げた。 「盛ってんじゃねぇよボスさんてめぇこのやろう…女抱きてえなら愛人とこ行けってんだぁ、星の数ほどいるだろうが、つーかこれ、ガキできたらどうすんだよ」 ザンザスは一瞬手を止める。ふ、とやさしく微笑んだ。 「そんときゃ臍の緒より先に首を切って落としてやるよ。好きなんだろう?そういう、潔いのが」 スクアーロは、悪趣味、とつぶやいたようだった。が、小さな声だったし、すぐに熱と吐息にまぎれてしまったから、ザンザスへ届いたかはわからない。 (レディ・カメリア、男はみんな馬鹿だもの) 床の上では打ち捨てられた椿の花がぽかんと宙を睨んでいる。 20080326 XSウェブアンソロさまに提出させていただいたなにか 大分古い |