いつからか、影の存在を知っていた。
影は気づくとこっちを見ている。視線を感じる。視線の先には影がある。それで何があるということはなく、ただ黙って見ているのだった。ふと振り返るとその先には、たとえば庭の花の下。たとえば閨の戸の裏に。
悪いものではないらしかった。実際、影は存在するというだけで、他にはまったく何もないのだ。



ある日、視界の端をかすめた影が、こちらへ向かって手を振った。手を振り、そして、そのままいつものように消えていこうとするから、元親は大急ぎで追いかけた。縁側から飛び降り、はだしのままで追いかけた。影は森の中へすべりこみ、足の裏はやわらかい草や小石を踏んでちりちりとしたが痛みはなぜか感じなかった。尖って鋭いいろいろなものはそっと元親の足をよけて息をひそめているようだった。
「なあ」
元親は影を呼ぶ。
「おまえは何だ。どこへ行くんだ?」
影は振り向き、非難をこめてささやく。
「…忘れたんだ。覚えてないのか。忘れないって、言ったくせに」
元親は悲しくなり、小声でごめんと絞り出した。影は黙って指をさした。漠然と前の方を示した。森が途切れている所。
間違えて突き出てしまったような崖だった。すぐそこで海が見つめている。時折波がなめるのだろう、貧相な雑草が2、3本と、生まれただけですぐさま死んだとおぼしき細っこい枯れ木、それだけしかない寂しい地所だ。ここがなんだというんだ、元親はちらりと影の方を見たけれど、影はすっかり森の深緑にまぎれて丸まっている。元親はしかたなくしゃがみこみ、平たい石をつまんで投げた。海が腕だか舌だかを伸ばしてからめとる。枯れ木は筆ほどの丈もないくせに小さな実を2つばかり抱えている。折り取ろうと指先で触れ、触れて気づけば、それは枯れ木ではない。
指の腹を染める錆。金気のにおいが鼻を刺す。コロコロと震える実…鈴…錆に埋もれた朱塗りの地肌、赤い…赤い………



海が。
はじける。
海馬。





『わたしはきれいなものが好き。小さいかわいいものが好き』
『お手玉。リボン。びいどろの玉。鈴のかんざし、花飾り』
『若様!そんなものをお持ちになってはなりません!』
『やめて、なにするの』
『ひどい!ひどいわ、燃やすだなんて、全部…灰に…』
『さあ、若様、剣をどうぞ』
『御馬をお引きいたしましょう』
『…わたし、そんなのほしくない』
『かくしておいてよかった。いっとう気に入りのものだけは』
『もうこれだけしかのこってないけど…』
『誰か庭へ火を!殿をお呼びいたせ!』
『若様がまた――――』
『………あ…い、』
『いやーーーっ!!』
『…逃げてしまった』
『怒られるわ。帰ったら、たたかれる… だけどいちばんつらいのは…』
『わたしは、いけないのね。好きなものと、ともにあるのは』
『全部、燃やされる、こわされる…』
『…ひとにやられるくらいなら…』
『いっそそれなら』
『自分の手で』





「………っ、」
勢いよく立ち上がると一瞬平衡がかき消えた。どっと膝をつきやり過ごす。
そうだった、泣きながら走った道、頭の奥で響く耳鳴り、爪に食いこむ砂利の感触、痛み、穴の底の端切れや貝殻。リボン。びいどろ。忘れるものかとかみしめた奥歯。墓標代わりに刺した簪は鈴の飾りの赤色の…
ああ、ああ、どうして忘れていられたろう。そこは墓場だ。思い出してしまえば、愛しいものたちを棺に横たえた、軋む胸の痛みさえ色あざやかによみがえる。忘れないと、きつく誓って背を向けた、ああ、そうだ、そこは、そこは。

「…ずっと、ここにいたのか…」

背中の向こうで少女の影が笑っている。





「父上、わたしはいやなんです」
少女は男に訴える。
「わたし、争いたくないんです。父上みたいな…武士なんて…この世の業をまとめてかついでジゴクへ身を投げるような生き方、わたしにはむりです。ひとりきりでつよくあれない、それをするには、わたしはきっともろすぎる」
「――――だけど」
元親は、重く答える。
「だけど、しょうがねえよ。わかるだろう」
元親は手を伸ばす。少女の首を、そっと手のひらで包みこむ。抜けるような肌の華奢な首、片手でさえ易々つかめそうなそれ。愛おしむように力をこめる。
「こうしなきゃ生きてゆけなかった…」
少女はゆっくり締めつけられていく喉、自分の身体を見下ろして、ひゅう、とちいさく息を吐いた。やわらかな骨がギリギリ鳴いて、震えながら開いた唇は薄く紫に染まっている。
「…そうね。わかってました。これからもっと背だって伸びるし」
少女は言った。「だけどわたしは見てるから」 声はほとんどつぶれて掠れ、ひどく聞き取りづらかった。
「わたしはずっと見てるから。あなたはこれから、あなたが殺したわたしのぶんまで、血まみれの人生送ってね」

「…わかってる」





「迷わないよ」











いつからか、影の存在を知っていた。
影は気づくとこっちを見ている。何も言わずに笑って見ている。赤い着物に赤い簪、細い手足に花を下げ、変わらぬ姿でずっと見ている。
たとえば庭の花の下。たとえば背中、右後ろ。





影の存在を知っていた。
影の名前を知っていた。

影は、遠い昔殺した、不幸な少女の遺言だった。













20080819
元親の命日3ヵ月遅れ