記憶の中の自分は3つか4つのがんぜない子どもで、父に手を引かれて緑の迷路を歩いている。
今思えばそれはそういう趣向の庭だったのだろうが、幼い自分にはまるで異世界へ迷い込んだように感じられて、ただ父の背で木々の枝葉の影が踊るのを見つめながら足を進めた。
迷路を抜けると白い光が満ちる空間があった。まぶしさにとっさに目を閉じたが、苛烈な光は眼球を灼き、世界のすべてを焼きつくす。そうしてクリアになった世界の、薄紅と赤の花が咲き乱れる花園で、私は花守の精霊を見たのだ。



精霊は白い単衣をまとって、いかにも人間らしくたたずんでいた。父は彼の人と話があるのだという。その間は好きにしていていいと言われてあいさつするべきか考えた。考えているうちにふたりは行ってしまったから、まあいいかと思い直した。
背中の向こうで父と佳人が静かに言葉を交わしている。私はやりとりの気配を感じながら小さな池のふちにしゃがんで、紅白うち混じりの鯉が水中に錦を描いて泳ぐのを見つめている。
「このままでいられないのは、わかっていたわ」
父が何事か言って、美しい人が答えるのが聞こえた。透明な声だった。透き通った声が鼓膜をなでて身体の芯がひやりと震えた。こめかみから汗がひとしずく首筋をつたって落ちて、乾いた地面にしみを作る。
頭を振り、手の甲で額をぬぐって立ち上がり振り返るといつのまにか父の姿がなくなっていた。ひとり濡れ縁に両の脚をそろえて腰かけていた人がこちらを見てにこりと微笑む。おいで、と手招きされて、わずかばかり気後れしながらそろそろと近づいた。板張りの軒に腰を下ろせば、右隣、かすかに香る荷葉の香。
「はじめまして…少輔太郎、殿」
「…あ、なまえ」
「お父上からうかがっています」
私はうつむいて空を蹴った。こんなとき地に足が届かないなんていうのは自分が子どもだという証明に思えて嫌だった。嫌だったけど、そうでもしないと間がもたない気がしたから。上目づかいに見上げた先で透明な声の持ち主はそれらしく座っている。子どもという身分におよそはじめて感謝した。大人だったらきっととっくに逃げ出しているはずだ。予感は予言めいていたけれど確信はあった。心のなかでぼんやりつぶやく。このひと、なんなんですか、ちちうえ?
それきり二人とも黙り込んだので、ゆれていた足もいつしか止まった。同時に時間も止まっている気がした。日差しが、熱い。涼やかな荷葉とチカチカまたたく花の濃密なにおいが混じり合って頭が痛む。

「あなたは、ここに、ひとりでいるの?」
「そんなようなものね」
「ひとりでなにをしているんですか」
「…花を育てている」
「花を…」
「そう、私はここの花守り。だから、花を、いえ…もしかしたら、守られているのは私なのかもしれないけれど」

時間が止まっていたのはどれくらいの長さだったのか。ただ、話したことはその程度だ。



父に手を引かれて歩き出して、しばらくして振り返ると、薄紅や赤に霞む白い姿はまだ花園の終わる場所に立っていた。それ自体が花のようだ。単純にきれいだと思った。
「ちちうえ」
「何だ」
「あの…ひと、の、なまえはなんとおっしゃるのです」
父がためらうのを見るのは珍しかった。珍しかったのでじっと見ていたら催促と受け取ったらしい、言いにくそうに、わからない、とつぶやいた。それがまた珍しかった。この聡明な父にわからないことがあるなんて! あんまり意外だったのでもうひとつ質問があったのだけれど思い出せなくなった。父子は黙って緑色の迷路を歩く。
「いずれ」
「はい」
「いずれおまえも、あれとはまた会うだろう。そのときにはあれの名も定まっている」
ということはあのきれいな人は出家でもして名を変えるのだろうか、などというふうなことをちらりと思った。
「と、思う」
思う、だなんて。この父の口から聞くだなんて!
衝撃は表に出さず、なんとなくうなずいた。何に対しての肯定のしぐさか父は問わなかったのでありがたいと思った。
迷路はやけにきらきらして、進む方向ももと来た方も奇妙なくらい明るく光る。



二人きりになったとき感じた、あの息のつまるような、逃げ出したくなるような感覚をもしかしたら恋と呼ぶのだと、気づいたのはずっとあとになってからだ。







「…隆元」
「はい」
名を呼ばれて廊下の角を曲がってみると大体いつもどおりの光景があった。ああ平和だなとしみじみ思う。あとでなにか甘いもの、そうだな、落雁でも食べよう。
「これを動かすのを手伝ってくれ」
これ、というのはつまり父の脚を枕にして眠っている御仁で、すやすやと寝息をたてている。本当にすやすやなんて擬音で寝るのですね、長曽我部殿って。苦虫を何匹かまとめて噛み潰した表情の父に言ってみるとさらにもう数匹が追加されたようだ。とはいえ父も言うほど迷惑がっていないのは知っている。なぜって、彼はとてもあたたかくて、通常ならわずらわしいような接触さえ心地よく感じさせるのだ。
「あのときは精霊に思えたのですけど」
「隆元?」
「やっぱり人間だったのですよねえ。いや鬼か」
「何を…」
「お手伝いはお断りします」
丁寧に頭を下げてその場を離れた。呼び止められた気もしたが構わない。小さく笑って、届かないのを承知で言の葉を舌にのせた。
「ひとの初恋の人をとったのだから、それくらいご自分でしていただかないと」
口に出してみると、思ったよりも恥ずかしかった。



残された元就は、反抗期か?と首をかしげる。
元親は幸せそうに眠っている。
遠い、花園の頃の、夢をみている。













20070514
隆元の初恋が姫若子だったらいいなあって。