闇色の水の面は油を流したようにてらてらと光っていた。陶器のなまめかしさを含んだ花がそこここに浮かんで純白を灯す。花から伸びた虫襖色の茎は細く長く底を目指して沈んでゆく。
淵に立ち、水面をのぞきこみながら、花の名前を考えていた。

「睡蓮、ですよ」

少年が言う。「…あぁ」 何か意表を突かれた気がして言葉に詰まった。だが中身はごくあたりまえの花の名だ。「睡蓮。睡蓮か」
言われてみれば確かにそう、どうして思い出せなかったのだろう。白い花は睡蓮だった。ふと手を伸ばして花に触れれば、触れた点からザアと黒が広がる。見る間に墨染めとなった花はうるうると身を震わせ、おのが花弁を固く抱きしめ水の底へと沈んでしまった。半端な長さの髪を揺らして少年が笑う。

「駄目じゃないですか。それは弱いのだから」
「…知らなかった。こんなに弱くて、どうして咲いていられるのか」
「弱いから咲いているんです」
「弱いから?」
「あなたは弱くないでしょう?」
「さあ…」
「あなたなら、蓮になれますよ」

少年は睡蓮を踏んで水上を歩く。踏みつけられた睡蓮はほの赤く光り、赤い露をとろりと流した。(それは弱いのだから) 少年の言葉が木霊する。赤。赤い露はとろとろとあふれて視界を埋める。「ところで」 少年が振り返る。


「あなたは甘いものは好きですか?」







目の前に顔があった。

「………ッ!?」
「おや。お目覚め?」

くく、と、よくわからない笑い方で銀の天蓋が引き上げてゆく。天蓋…いや、違う、髪だ。長い髪。

「…長く…なったのだな」
「はい?」
「…え?」
「…何が…でしょう」
「いや…いや、何か…なんだろう。すまぬ、今のは、自分でもよく…」

ぐしゃ、と頭をかき混ぜる。と、のっぺらとした肩が揺れ、それが笑っていることに気づいた。そう、笑っていた。なんと運のよい日だったろう。

「寝ぼけているところを見られるなんてねえ。それも、あなたの!」
「………おい」
「はい」
「貴様、なぜこんな所にいる」
「いいえぇ、私、お断りしたんですよ、起こしてくださるとは言われたんですけど。珍しくうたた寝なんかしていると聞いたら、これは起こしてしまうなんて無粋なまね、できませんもの。でもねえ、待っている間にふとひらめいたんです。これ、寝顔を見ない手はないぞ、と…それでこっそりお邪魔してじっくり」
「どれほど」
「半刻ばかり」
「言い遺すことは他に何か?」
「いやですね、どっから出したんです、その刀」
「冥土の土産には不要な話だ…」
「…いけませんよ。あなたは私を斬れません」
「…何故」
「何故って」

相手はしゃらりと真面目な顔を作る。

「私はまだお仕事を済ませていないのだから。さあ、信長公よりお預かり申した書状にございます。どうぞお確かめくださいますよう」


四半刻もかかっただろうか。少し話し、したためた返書を懐へ収め、立ち上がった。

「では失礼。あなたがそれの存在を思い出す前においとましましょう」

それ、と白刃を指す。ご丁寧なことだ。後ろ手に戸を閉めかけて、そういえば、と、振り向いた。

「その…それ。どうぞ。毒など入っていませんからね」

それ?
トン、と障子が鳴る。見れば、先刻まで客が座っていた、そのため死角になっていたとおぼしき場所に小さな箱がうずくまっていた。淡い灰ねず色、横長の四角。毒…?
膝に乗せる。蓋を開けると二対の白が目に飛びこみ、ドキリとした。何か………魂………に似ている気がしたのだ。(見たことがある?) いや、気のせいだろう(本当に?)


入っていたのは、蓮の花をかたどった砂糖菓子が2つ。







20081015