「祐樹ー、おじいちゃんとこ行くならリンゴ持ってってちょうだい!」
「叫ばねーでも聞こえてるっつうの!」

 玄関先に無造作に置かれた半透明のコンビニ袋の、中に詰められたはじけそうな赤をちらりと見やって、ビニールの持ち手を引っかけた。かかとのつぶれた革靴をつっかけドアを開け放つ。鍵を差しながら自転車のカゴに袋を放り込み、一気にペダルへ体重をかける。病院までは軽く流して20分弱だ。







 祐樹の祖父は一年ほど前から入院している。若い時分の無茶が祟っちまったと本人は笑っていたが、母曰く、なかなか笑えない状況らしい。かくしゃくとした様子を見ているととても信じられないのだけど。それでも最近、確かにベッドから出ていることが少なくなった。
 祖父は鳶職を続けてきたとかで、身内のひいき目を抜きにしても格好よく、さばけて、きっぷのいい、孫からすれば自慢のじいちゃんだ。手先が器用で大概のことはこなしてしまう。夏休みの工作などはずいぶん助けてもらったものだ。それにこの年代の男にしては珍しく料理もうまい。まったくできないことのない人だった。
 加えて、話がよくわかる。祐樹が髪を染めるのを親に反対されていたとき、愚痴をこぼすとふんふんとうなずいて聞いてくれたが、翌日蛍光色の頭になって現れた。白髪染めを間違えてなぁと説明していたけれど、ただのうっかりであんな派手な色になるわけがない。おかげで祐樹の茶髪は大分すんなり通ってしまった。祖父はにやりと笑ってみせて、似合うじゃないか、まぁじいちゃんには負けるけどなと乱暴に頭をなでた。実際そのとおりなので反発さえ感じなかった。
 そんなだから祐樹は自他ともに認めるじいちゃん子に育った。反抗期にも祖父とは腹を割って話したし、好きな子の話なんかも。入院してからも塾だ部活だと忙しい中から時間を見つけてできるだけ見舞いに通っている(祐樹は剣道部だが、それだって祖父の影響だ。祖父は剣道観戦が好きで、小さい頃から祐樹もよく連れていかれていた) 喧嘩したことなども本当に数えるほどしかなかった。







 病室のドアの前に立つと中から笑い声が聞こえた。

『それは、しょうがない。ずいぶん長いこと待ってたんだから』

 見舞い客が来たんだろうか。祖父の声は明るく、かなり調子がよさそうだった。ドアノブにかけた手を下ろす。(邪魔しない方がいいのかもしれないな) お客は女性かとも思ったが、切れ切れに届くやりとりからすると、どうも男の人らしかった。

『そんならもっと早く来てくれりゃあよかったのにさ。だって俺は会いたかったし、忘れてなかった。…ああいや、そんなこと言うなよ、わかってる。ちょっとばかり浮かれてるだけだよ。だって、本当にずっと待ってた』

 応える声はよく聞こえない。祖父の声ばかり晴れ晴れ届く。

『待つだけの時間は永遠みたいに長かったけど…こうなってみるとほんの一瞬だったようにも思える。だけど繰り返すのなんかは御免だね。さあ、連れてってくれるんでしょう? 駄目だと言ったって一緒に行くよ。わかるだろ、俺は…うん…うん。…ありがとう』

 胸の内側をざらりとした血が通っていった。
 一緒に行く?…どこへ? 1日のほとんどを病室で過ごしているような祖父が、どこへ行くっていうんだって?
 わけのわからない衝動にかられて勢いよくドアを開け放つ。途端、大きく開いた窓からざあっと風が駆け抜けて、白いカーテンをひるがえし、部屋に溜まった薬のにおいをひと息に洗い流していった。
 窓枠の上、寝巻きのすそをはためかせながら片膝を立てた祖父は振り返り、笑う。危なっかしく、だけどとても楽しげに。

「…ユキ!」

(――――あ、)

 その、声。笑顔。いつか。
 呼びかける…



――――じいちゃん、おれユキじゃないよ。ユウキだよ。



 思い出すのは、祖父と喧嘩した数えるほどの。
 祖父は祐樹が小さい頃、祐樹のことをユキと呼んでいた。何もわからないうちはそれでよかったけれど、段々女の子みたいで嫌だと思うようになって、そうしてある日、祖父をにらんで言ったのだった。おれのことユキって呼ぶのやめろよ。
 あの日、祖父はどこか寂しげに笑っていた。こまったように首をかしげて言った。そうだよな、祐樹はユキじゃないもんな。それから祖父が祐樹をユキと呼ぶことは二度となかった。喧嘩とも呼べないささやかな記憶。
 祖父は目の前であの日と同じように笑っていた。ただ寂しさはそこにはなかった。鮮やかに染めたオレンジの髪を水色の風になぶらせて、よく晴れた空みたいに明るく乾いた別離の情だけにじませて。

「ああ、見舞いかい?いつもありがとう。だけど悪いね、じいちゃん旦那と一緒に行くから…」

 すっきりと手を振る。傾く、


「じゃ、またな!」


 そのとき、祖父の手をとる誰かの手のひらを確かに見たのだ。
 白いばかりになった病室の中で祐樹は立ちつくす。じいちゃん、おれはユウキだよ。それじゃあユキは誰だったんだ? 提げたままだったリンゴの袋、ビニールの持ち手を手の中の汗ごと握りしめる。祖父は行ってしまって、そしてもう会えないという事実だけがからっぽのベッドに転がっていた。どうしようもなく首を振る。乾き張りついた唇を引き剥がし、肺を押しつぶす圧力をごまかすみたいにつぶやいた。


「 佐助じいちゃん 」











 どこかで誰かの悲鳴が聞こえた。













20090719